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里山辺かるた「ち」
更新日:2026年9月30日更新
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千鹿頭神社の草創は不詳ですが、恐らく林村から神田村一帯にまたがる「水の神として祀られたものが始まり」とされます。元和三年(一六一七)藩主小笠原忠政(八万石)が移封となり、その後に戸田康長が七万石で入封すると、差額の一万石分が諏訪藩と高遠藩にそれぞれ五千石ずつ割譲されました。これがいわゆる東五千石と西五千石の成立です。
さて、その『東五千石』の境界がなんと千鹿頭の峰伝いに引かれます。それに従い神社も本殿・拝殿等が分割され、『二社並立』の珍しい形式の神社となり現在に至っています。
さて、その『東五千石』の境界がなんと千鹿頭の峰伝いに引かれます。それに従い神社も本殿・拝殿等が分割され、『二社並立』の珍しい形式の神社となり現在に至っています。

よもやま話(里山辺の三大神社Ⅱ)
今回取りあげる神社は、千鹿頭神社です。この神社は林町会と神田町会の境の小高い山頂にあり、両地区の本殿と拝殿が並ぶ珍しい形式の神社です。
この神社は、年代は不詳ですが、諏訪の守矢神のお子神の千鹿頭神を勧請したものと伝わります。
元和三年(一六一七)に藩主小笠原忠政(八万石)が移封となり、その後に戸田康長が七万石で入封すると、差額の一万石分が、諏訪・高遠の両藩に各五千石ずつ割譲されました。これがいわゆる『東五千石』と『西五千石』の成立です。
その東五千石の境界がなんとこの千鹿頭の峰伝いに引かれました。それがこの珍しい形式の神社が生まれた理由なのです。
この神社は、年代は不詳ですが、諏訪の守矢神のお子神の千鹿頭神を勧請したものと伝わります。
元和三年(一六一七)に藩主小笠原忠政(八万石)が移封となり、その後に戸田康長が七万石で入封すると、差額の一万石分が、諏訪・高遠の両藩に各五千石ずつ割譲されました。これがいわゆる『東五千石』と『西五千石』の成立です。
その東五千石の境界がなんとこの千鹿頭の峰伝いに引かれました。それがこの珍しい形式の神社が生まれた理由なのです。

