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里山辺かるた「ま」

更新日:2026年9月29日更新 印刷ページ表示
江戸中期以降、世の中が安定してくるに従って『観音霊場巡り』や『薬師堂巡礼』などが盛んになります。四国八十八霊場巡りや西国三十三番になぞらえて、地元にも『松本三十三番』とか『筑摩三十三番』などの霊場巡りが生まれますが、同様に松本地方各地の薬師堂を巡る『松本十二薬師』も生まれました。その中に、当地では「八番林薬師堂・九番湯の原薬師堂・十番下金井薬師堂」の三御堂の名が見えます。この内、湯の原薬師堂・下金井薬師堂については今でも地域の人々によって守られていますが、林薬師堂については在った場所さえはっきりしません。恐らくは『竹渓庵=薬師堂』、あるいは『竹渓庵に付随して薬師堂が建立』されていたために薬師堂の名前が忘れ去られたものと思われます。同地籍には『やくしの田』とか『やくし山』の地名が残っています。
※竹渓庵=小笠原貞慶(長時と書かれた研究書もあります)が母「竹渓尼」のために建てた庵といわれ、林小城の北麓にありましたが、今は跡地を残すのみになっています。
ま

よもやま話(はなかなく消えた史跡)

今回は前回とは逆に「歴史のはかなさ」についてです。
江戸時代も中期以降、天下泰平の空気の中で、西国三十三番礼所巡りなどが盛んになり、それになぞられて『松本三十三番』なども生まれました。同様に『松本十二薬師』も生まれ、里山辺では八番林薬師堂・九番湯の原薬師堂・十番下金井薬師堂の名がみえます。この内、湯の原薬師堂と下金井薬師堂は今も地域の皆さんによって守られていますが、林薬師堂は場所はおろかその存在するも忘れ去られてしまいました。
恐らくは『竹渓庵=薬師堂』であったため、竹渓庵の名前のみが残ったのだと思います。歴史のはかなさを感じます。
※竹渓庵も今は更地です。

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